創造論者のための進化論入門スケプトイド #10 |
一部の創造論者は進化論に対する彼らの標準的な主張のいくつかが無視されたり見下されてるのではないかと心配していることだろう。これはおそらく本当のことである。どんな議論でも相手の主張を弱い立場にしようとすることは一般的である。時には進化論をばかばかしいもののように見せるためにそれは意図的に行われる。またある時には進化論とは何かまたその仕組はどうなっているのかに関する無知から無意識に行われる。誤報や無知はどんな会話においても良い基板にはならないので、議論相手に関する正しい基本知識を望んでいる創造論者の利益になるようにわたしは進化論入門の基本講座をここで提供する。これを実現する最善の方法としては進化論に関する三つの最も一般的な誤解を追い払うことだとわたしは思う。
誤解その1:人間は現代の類人猿から進化した。
これは進化論に関する最も古い最も間違った誤解である。現存する種が他の現存する種に変化したなど誰も提案してはいない。進化論に対する批判として、進化論者が主張していることをわざと悪く見せるために、シャケがカメに変化して、それがワニに変化して、それがカバに変化して、それがライオンに変化して、それが猿に変化して、そしてそれが人類変化したという図解を見せる。そんな理論はもちろんばかげている。それは単なる空想で実際の進化論とは何の関係もないのだ。
種の多様化は原始のスープから生まれてきた木の茂みのようなものなのだ。多くの木は死滅する。一部は高く育たない。一部は長い間成長し続け今でも成長している。木は枝分かれして、枝もさらに小枝に別れるが、小枝がまだ元の枝に戻ってくついたり、二つの異なる木から一つに戻るというようなことはないのだ。種の進化の経路は木の枝のようになっていて、ドーナツ型や8の字やハシゴ状にはなってないのである。進化論を受け入れるには、シャケがシマウマになるとか類人猿が人間になるなどと考える必要もないし考えるべきではないのである。それは単に遺伝学的に不可能なのである。
猿から類人猿に変化してそれが原始人に変化してそれが人類に変化していく有名な図解は誰もが見たことがあるだろう。進化の木を下れば小さくて毛深くて頭の悪い初期の人類を実際に見つけることができるだろう。しかしそれは現代の類人猿ではないのだ。現代の類人猿を見つけるには、進化の木をさらに何百万年も下って、まったく別の枝を見つけて、そこから遺伝的な異種をたどって、いくつもの死んだ枝を通り過ぎて、さらに他の現代類人猿の種の枝を通り過ぎて、やっと現代類人猿を見つけることができる。2つの種は消して接触しないのである。
誤解その2:進化論はまるで廃品集積場で起こった竜巻が完璧なボーイング747を作ってしまうようなものだ。
これはよく出てくる表明で、進化論はでたらめさに依存するので複雑な構造に進化するのは不可能に違いないという主張である。これは半分正しい。しかし、全体的には完全に間違っている。でたらめな変異は進化を促すものの一つにすぎず、この主張は進化の鍵となる“自然淘汰”を完全に忘れているのである。
明らかなことだが、もし竜巻が廃品集積場を通り過ぎたら、バラバラの廃品になるだけで完璧なボーイング747にはならない。どの進化生物学者もどんな正気な人も、それが747になるなどとは主張しないのである。あまりにもばかげている。竜巻を進化のでたらめさに相当させてるつもりらしいが、遺伝子は竜巻のように破滅的に一気に変異はしないのである。同じ例を使ってここにより正確な比喩を挙げる。
まずは、与えられた人口に相当する何百万もの廃品集積場を想像して欲しい。次に、廃品処理場を注意深く歩いては、廃品をねじったり、曲げたり、二つをつなげたり、切断したりする、何人もの溶接工を想像して欲しい。彼らはそれらをでたらめにするが、小さい変更を限られた回数だけする。何も変更しない時もある。これが生物の遺伝子がいかに変異するかのより正確な描写である。たった一つの大変動竜巻ではないのである。
そして自然淘汰の出番になる。各廃品集積場の廃品を一つ一つテストしてみよう。変更された廃品は以前より良いものか? 逆に悪いものか? 何百万もの廃品集積場での何百万もの変更によって、どこかで何かしらの改善がされるのは必然的なことなのだ。自然淘汰の働きの一つとして、適応できない生物がやがて除去されるというものがある。これを比喩に適用すると、溶接工によって変更された廃品がより悪いものになった廃品処理場は除去しなければならない。これによって、安定しているか改善している廃品集積場だけが残ることになる。そして、次世代の種を比喩で示すとすると、改善された遺伝子の集合であるすべての廃品集積場を複製して、そこにまた溶接工を送ることになる。彼らはそこでいくつかのでたらめな変更をするか、またはまったく何も変更しないのである。
これが繰り返される度に、複数の廃品集積場全体は改善することになる。これは数回起こるだけではなく、何百万回も何十億回も起こる。溶接工によって行われた変更は数え切れないほど多い。ほとんどの変更は役に立たないか、より悪い廃品を作る。しかし、自然淘汰がより悪い廃品集積場を除去し、改善された廃品集積場をさらに増殖させるので、複数の廃品集積場全体としてはより良くなり続ける。廃品集積場内で、使い物になるような物や強い物ができてくる。誰も予測しなかったような能力を持つ物ができてくる。改善された廃品は多くの廃品集積場で複製され、何百万ものわずかな変更を施された物が出現する。各世代の最善の物に注目すれば、同じ廃品がより良く強く使い物になる、より適用された能力を持つ機械に進化するところを見ることができる。これが進化である。
誤解その3:進化論は単なる説にすぎない。
第一に、ほとんどの生物学者が進化論が“単なる説”だと考えているともしあなたが信じているなら、あなたは時代遅れである。ほとんど全ての生物学者が進化論を事実と呼んでいる。それは、創造論者に応じるために特に必要だからと感じているからではない。
第二に、創造論者が進化論を“単なる説”として退けようとすることは、実は彼らは進化論の科学的正当性を認めていることになる。なぜそうかということを理解するためには、“説”がいったい何かということを理解する必要がある。創造論者が進化論をけなす言葉を使う時は、彼らは仮説という言葉を使うべきなのである。仮説は仮の案で、提案された説明は正当化される必要がある。進化論はその段階はすでに超している。最も忠実な反進化論の創造論者ですら、進化論を説としてもっと上のステータスを与えている。
説と見なすには、進化論は以下の基準を満たさなくてはならない:
- 説は実験による証拠から導かれていて実験による証拠によって充分に支持されていなければならない。たった一つの根拠ではなくて、多岐に渡る証拠によって支持されていなければならない。
- 説はテストによって否定できる程度に明確でなくてはならない。もしテストもできなければ論破もできないとしたら、それは説として見なされない。
- 説は未観測なことについて明確でテスト可能な予測をできなくてはならない。
- 説は新しい証拠の発見によって変更することを許されていなければならない。それは動的で試験的で訂正可能でなくてはならない。
最後の挙げた、試験的で訂正可能で将来の変更を許しているという点に注目して欲しい。創造論者は進化論は他のどの説と同じように不完全だということしばしば指摘するが、それは説の基準であって、反証にはならないのである。説であるためには進化論は当然不完全であって(ダジャレのつもりはないが)常に進化し続けなければならないのである。
事実の厳密な科学的な定義はより単純でよりあやふやである。事実は実証可能な観測である。進化論は生物学の各分野で幾度となく実証されたので、生物学者は進化論を事実と呼んでいる。多くの科学者はそれぞれの事実はある意味でそれ自体が説だと主張するので、その意味では進化論が事実と呼ばれようが説と呼ばれようが大差ないのである。生物学者は常に新しいことを学んでそれを進化論の知識に加えるので、おそらく説としておいた方が良いのだろう。
何人かの創造論者がこの説明に価値を見つけてくれることを期待する。いつものことだが、コメントはウェブサイト上で喜んで受け入れる。
参考
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